バッドランドを生き抜くフレームワークとしての村上春樹

4月16日(火)01:30。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み終えた直後、僕はソーシャルネットワークに向かってこうつぶやいた。「ああ、また村上春樹の小説を読んでしまった。読後のこのモヤモヤをどうしてくれよう。。」


色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

僕は村上さんのエッセイが好きだ。「讃岐・超ディープうどん紀行」を読んでは涎をながし(香川うどん巡礼行ったなあ)、「もし僕らのことばがウィスキーであったなら」でアイラ島シングルモルトに思いを馳せ(ボウモアラフロイグ。飲んだねえ)、和田誠さんとのセッション本「ポートレイト・イン・ジャズ」をガイドにスタン・ゲッツやビル・エヴァンズのCDを買った。

ライトな文章を書く時の村上さんはサービス精神旺盛で、読み手のツボを熟知したコラム職人みたいに感じる。でも小説を書く時の村上さんは、別人だ。

解かれないまま放置された謎、途中で消えたまま戻ってこない思わせぶりなキャラクターたち、不条理に襲いかかる暴力、唐突に訪れる幕切れ。村上小説のエンディングはエンターテインメントな大団円からはほど遠く、この心残りな感覚は、まるで、まるで人生みたいじゃないか!

村上さんの小説を読み終わるたびモヤモヤした想いが残り、もう次は読まなくていいかなと思う。にもかかわらず新刊が出ると手に取ってしまうのは、なぜだろう?

僕は村上小説の幕間というか、日常シーンを読むのが好きだ。主人公達は、みな規則的な生活行動を大切にしている。水泳とか、料理とか、洗濯とか。今回の主人公も、絶望の淵から地道な生活行動を積み重ねて立ち直っていく。

普通に生きてれば、いろんな困難と向き合うことになりますよね?
仕事がうまくいかないとか、近しい人とも理解しあえないとか、30過ぎれば人に言えない持病のひとつやふたつあるのはあたり前田のクラッカー。そんな日が暮れるたび、僕らの心はバラバラに砕けていく。サンドピープルに襲われたC-3POみたいに。

新しい一日に立ち向かうには、散らばった破片を拾い集めて自分を立て直す作業が必要だ。そのためには毎日15分でもいいから自分自身に相対して、何かをつくる/成しとげる時間をもつことが、有効なのではないか。村上さんの小説は、救いのない人生の中で自分を立て直して世界に向き合う方法を提示しているように思える。

大事なのは、その方法を自分自身にコピペできるか?ということだ。いくら好きでも大藪春彦の問題解決法を自身に適用したら、日常生活は維持できない。その点、村上式自己復元方法は汎用性が高い。水泳やマラソンが盛んな国では村上春樹の小説が愛好されるのではないかという仮説を立ててみたが、その因果関係の検証は、地上のどこかに存在するセクシーなデータサイエンティストにお任せするとして。

本書では「巡礼」や「駅を作る」といった引っかかりのあるキーワードが提示されており、その辺の意味も考えてみたい。もしあなたが未読なら、1700円と数時間を投資する価値はあると保証するので、今度飲みながら話しませんか?
結局モヤモヤするんだけどね。


Badlands, you gotta live it everyday,
Let the broken hearts stand
As the price you've gotta pay,
We'll keep pushin' till it's understood,
and these badlands start treating us good.


(2013/04/23付 TechTargetジャパン 新着情報コラムの編集前原稿)