ある営業マンの思い出

その人はいつも同じ紺のブレザーを着ていた。
──正確に言うと、同じ型のブレザーを何着も買って着回していた。

その人はいつも同じ7:3の髪型をしていた。
──床屋に任せておけない儀式らしく、風呂場で自分の髪をカットしていた。

その人はいつもショートホープを吸っていた。
──何十年吸っても健康診断はオールAだと自慢気なのが、少々癪だった。

その人がニヤッと笑って近づいてくると、たいていトラブルのサインだった。

その人は、モデリングする営業マンだった。
顧客と会う時はいつも紙とペンを手元に置き、ヒアリングが始まると紙に四角い枠を描いた。枠の中には円や三角・矢印などの記号がどんどん配置され、話が終わるころには一枚の地図らしきものが出来上がった。地図で企画の全体像を示して行程をナビゲートするうちに、顧客を自分の世界に巻き込んでしまう。そんな営業スタイルだった。

その人は起業してからどんどん忙しくなった。
余裕がなくなると出がけに企画書をプリントアウトして、客先に向かうタクシーの中でホチキス止めしていた。そのうち企画書の完成が間に合わなくなり、タクシーの中で手書きでページを埋めるようになった。もっと忙しくなると、タクシーの中でも企画書は完成しなかった。客先でプレゼンテーションをはじめたものの、説明途中で資料は白紙になった。その人はあわてることなく”続きはホワイトボードで” と言って、勝手に客先の設備に地図を描き始めた。企画書を客先でリアルタイムにレンダリングする芸を見たのは、ぼくの職業人生で空前絶後だった。

その人こと私の元上司4本さん(仮名)は、13年勤めた会社を先週で去った。

でも、油断はできない。

いつかどこかでチェシャーキャットのような笑いを浮かべて、ヘンテコな地図を片手に近寄る人物が現れたら、それはまちがいなく4本さん(仮名)だ。気をつけなければ、あなたはいつの間にか違う世界にワープさせられているかもしれない。自分はなぜここにいるのだろう?とつぶやきながら。

(2013/02/08付 TechTargetジャパン 新着情報コラムの編集前原稿)